行動を起こしたら成功したいというのは、ほとんどの人の本音だと思います。少なくとも私はそうです。できりゃあ努力が報われたい。
しかし、特に周囲と比較や競争する分野では、行動すれば成功が約束されているわけではありません。自分の行動だけで結果は決まらないので難しいところです。
成功に重きを置くと報われない努力は結構あります。少なくとも私は報われないことの方が多いです。
ただ、自分の中に小さな変化を生むことはできますし、案外未来で役立つことがあります。報われない努力も無価値って程ではないかもしれないという内容です。
ざっくりまとめると、
- 私は学生時代に部活動に打ち込んでいましたが、万年応援席で試合に出ることはできなかった
- 「成功する=努力が報われる」とすれば、練習は報われなかったことになる
- 相対評価される分野では結果を自分だけコントロールすることはできないので、結果がでない・報われないことは山ほどある
- 努力が報われることがベストかもしれないが、その過程で生まれた自分の変化をベターと捉え大事にしたい
- 慰めや諦めの感情があることは否定しないけれど、報われない努力が無意味なんてことはなくて、自分が生み出す小さな変化を積み重ねることで成長できる
- できるだけ自分の行動に対してポジティブでいれるような考えを持てるようにしたい
努力が報われないことって結構ある
学生時代にいわゆる強豪校の運動部に所属していました。
元々上手かったわけでも才能があったわけでもありませんが、厳しい環境で一生懸命練習したら試合に出してもらえるかも、ヒーローになれるかもしれないと根拠のない自信を持ちつつ結構真剣に練習に打ち込みました。
で、結果はというと私の定位置は最後まで応援席でした。練習試合とか小さな大会で二軍三軍を出すみたいな時くらいは試合に出してもらえることはありましたが記念みたいなものです。
そんな万年応援席の私ですが、体力は今でも人並み以上にありますし、上下関係というか目上の方への処世術的なものは身についた気がしますし、いまだに連絡を取る仲間ができたので、最後まで続けて良かったなぁと思います。
あ、でも練習に関しては生まれ変わっても二度とやりたくないと思う程度にはきつかったです。今だとコンプラ違反とか言われちゃうんでしょうか?
一方で、試合で勝つことを目標として厳しい練習に励んでいたわけで、私は試合に出ることすら叶わなかったことを考えると、練習は無意味だったとも努力が報われなかったとも言えるかもしれません。(自分なりに一生懸命だっただけなので努力と言っていいかは分かりませんが)
勝負事、順位をつけるもの、数に限りがあるものなど、相対評価的な判定基準を用いる分野で、その結果によって努力が報われたかを判断するのであれば報われないことは沢山あります。
相手や周囲の人次第で自分の結果が変わることは全然あって、自分ができることは良い結果を得られる確率を上げるところまでです。
どうせやるなら報われたい、望んだ結果が欲しいのは本音。でも、絶対大丈夫なんてことはなくて、コントロールできない領域がある以上仕方のないことです。
学生時代の私で言えば、試合に出てヒーローになりたいという目標は果たせなかったわけですが、周囲の仲間が私より上手かったからです。
彼らより上手くなるように練習すればいいじゃんってのはごもっともなのですが、彼らも上手くなりたい勝ちたい一心で練習しています。もしも仮に私が世界一の練習量と質を達成したとして、翌日に彼らが更新してしまう可能性だって当然あります。よしんば試合に出られたとしても、今度は相手チームとの戦いも待っています。
相手がいる以上自分がコントロールできないことはありますし、その結果によって報われたかを決めるのであればダメなもんはダメという時だってあります。
努力が報われなくても小さな変化に喜びたい
報われないものは仕方がないのですが、結果が出なけりゃ落ち込みます。
自分なりにとはいえ必死に準備したのですからこれもまた仕方ありません。失望感や後悔は時間によって薄めていくしかないのかなと思います。
しかし、先述の通り報われないことは沢山あります。「成功=報われる」なのであれば、少なくとも私は報われないことの方が圧倒的に多いです。いくら時間が立ち直らせてくれるといっても失望感ばかりではメンタルが保ちません。何かしらの喜びを見つけて自分を少しでも納得させる材料が欲しいです。
ということで、報われないのは仕方ないですが、その過程で起きた自分の小さな変化を大事にしたいなぁと思っています。例えば、冒頭のように体力がついたとか目上の方とのコミュニケーションができるとか、自分でコントロール可能な絶対評価的な変化です。
何かしらの経験というのはゼロイチではありません。結果が残念なものだからといって過程で得られた知識や技術は自分の中に残りますし、それらの経験を他分野で活かすことができます。実際、助けられているなぁと思うこと中年となった今でも私は多いです。
ちなみに、私は同じ分野で上を目指すってことはなく、さっさと諦めてしまったので他分野でも活かせることがあると知れたのは幸いでした。
望んだ結果を得ることがベストだとしても、自分の中の変化はベターくらいにはなってくれるはずで、ベターがあれば次の目標ができた時も億劫にならずに挑めると信じていたりもします。
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報われない努力に意味はあるのか
ただ、結局努力は報われないんでしょという話は残ります。小さな変化に喜びを見出すといっても本懐を遂げられなかったからであって、ただの慰めと捉えられれば否定はできませんし。
20年以上前のテレビ番組だったと思うのですが、レギュラーになれないのに野球部を続ける意味があるのかみたいな議論をしているのを見たことがあります。
エンタメとして極論をぶつけ合う意図があったのだろうと推察しますが、結構過激な内容だなぁと思います。
無意味派の論旨としては、報われない努力に時間をかけることはもったいないというものだったと記憶しています。
レギュラーになれるのなら、試合に出る・推薦による進学・もしかしたらプロといったリターンの可能性はあるけど、箸にも棒にもかからないのであればさっさと退部して勉学に励んだ方がよいという主張です。
合理的と言えば合理的な考え方なのかなぁと思います。
現状の日本では進学先がその後の進路に影響を与えることは否定できず、野球で芽が出なさそうなら少しでも偏差値の高い学校にという意見は理解できます。
ただ、もし野球の練習がレギュラーになるとか進路に好影響をもたらすかでないと無意味だとしたら、勉学に励んだ結果志望校に合格できなかった時は無意味ってことになっちゃう可能性あると思うんですよ。進学するにも競争相手がいるので本人ができる限りの勉強やったぞと思っても合格できない可能性はありますから。
まぁ、屁理屈ですしテレビの企画に本気で突っ込むのも無粋です。それに、ほんの一握りのプロ選手にならない限りは勉学に励んだ方が収入の高い職業に就きやすい傾向はあり、老婆心から部活より勉強を勧めたくなってしまいがちです。無意味派のタレントさんも決して意地悪で言っていたわけではないと思います。
結局、人生は報われない努力の繰り返しで、その過程で得られた経験から成長していくものだと思います。
「成功=報われる」の世界では大人も子どもも関係なく報われない努力は山ほどあって、如何に小さな自分の変化を大事にして将来に繋げられるかを考える機会はすごく多いです。しかも、何につながるかはその時にはわからない。
まさか学生時代の部活の経験がこんな形で仕事に活きてくるとは思いもしていませんでした。私。
そういう意味では、どんな分野でも挑戦して無意味ってことはないのかなと思います。少なくとも自分次第で無意味ではなくなると思います。
これは大人も同じで未来の自分がどうなっているかはわかりません。多少長く生きている分、頑張ったところで高が知れていると達観しがちですが、過程の中で生まれた小さな変化が積み重なって大きな結果に結びつくかもしれない。その瞬間は報われなくても未来はわからない。そう思う今日この頃です。
正直、言い訳や慰め、諦めでしかないという意見があるかもしれません。それは否定できないなぁと思います。私には想像もできない厳しい世界で結果を出し続けている人は現実います。
でも、誰しもそこまで強いわけではないと思いますし、少なくとも私にそんな強さはありません。短い人生少しだけでもポジティブになれる考え方は残しておきたい次第です。
以上、最後までありがとうございます。