言い切らなければ信頼は得られない。
そんな話を見聞きすることがあります。
「本当にそうなのかなぁ」「既にここに一人、その話を信頼していない人間いるけどなぁ」と思ってしまいます。(私一人ではサンプル数は少なすぎるのかもしれませんが)
言い切る、断言することって使い所が難しいものなんじゃないかと思います。
言い切ることは、一意的な見解をすることですし、簡単に訂正できなくなります。
「これが正しいので議論の必要がない」の意になることもあります。
でも、言い切ることで人を鼓舞できることもある。
ということで、言い切るってどういうことってのが今回のテーマです。
独断と偏見にまみれた、こんな内容です。
- 言い切ることが信頼に繋がるとは限らない
- 判断できない時に断言に頼りたくなる
- 言い切れること、言い切れないことって何さ?
- 自信を持つことと断言することって違うと思う
- 「〜と思う」は相手の話に耳を傾ける姿勢ではなかろうか
「言い切らない人」は信頼されない?
そういうこともあるでしょう。
言い切らないことで、次の印象を与えてしまうことがあるのは事実です。
- 優柔不断
- 自信がない
- 頼りない
- 責任逃れ
実際、営業マンやセミナー講師の人が、「〜だった気がします」「多分、〜」とかを乱発してくるとモヤモヤしてきます。
売りたい商品の知識に自信ないんだなとか、トラブル対応しない為の下準備かなとか、不安が募ります。
講義内容をどっちつかずの発言だけで済まそうとするなら誰でもできるわけで、あなたに任せなくても、、、と考えてしまいます。
言い切らない、曖昧な表現は、自信のなさや責任逃れの表れで、信頼されにくいという意見は理解できる部分はあります。
しかし、「言い切らない=自信がないや逃げ」とするのは一方的だとも感じます。
受け手の「自分では判断できないけど、断定的な答えが欲しい」という願望が入っていることもあるからです。
自分が判断できないものを言い切ってもらえば、信じればいいだけなので受け手は楽です。
というか、判断ができないわけなので信じる以外に道はないのですが。
「発言が曖昧だから、あの人は頼りないね」って言葉を聞くことがありますが、額面通り、頼りたいという願望があったんだなぁと感じます。
この場合、受け手は断言された内容が正しいがどうかは分からないので、言い切ったという事実を信頼しているに過ぎません。
判断できない環境下の中で安心感が欲しいから、言い切れる人を求めてしまうんだと思います。
実際のとこは、物事そんなに単純でなかったりします。
なぜなら、言い切れる事と言い切れない事が存在するからです。
だからこそ、多くの人が、言い切れる人を求めているのかもしれませんが。
もしも営業マンが断言しまくれば信頼されるようになるかというと、逆に不信感を与えることになると思います。
どこかには相手が判断できる領域があって、言い切れない事でも断言されることに違和感を持つので。
兎にも角にも言い切れば信頼感を与えられるってもんでもないのです。(あ、これは断言してますね)
事実や意思は言い切れる
言い切るということは、その内容が正しいとはっきり言うことです。(少なくとも私はそう捉えます)
自明の理な事柄は言い切る方が自然です。
- 事実を述べる時
- 自分の意志を示す時
事実を述べる時
明らかな事実は言い切れますね。
営業マンが見積書を提出するって時に、「納期は多分1ヶ月だと思います」なんて回答はしないと思います。
自社の製造部門と納期を擦り合わせて見積書を提出するわけで、「納期は1ヶ月です」と言い切るのが普通です。
セミナー講師が日本の人口推移について、「多分、少子化傾向になっていると思うので〜」なんて言ったら顰蹙ものです。
既に絶賛少子化中なので、「現在の日本は少子化が進んでおり〜」みたいに断言して話を進めます。
むしろ、事実に対しては、言い切ることが求められます。
自分の意志を示す時
自分自身の意志を示す時は言い切れます。
自分が何をしたいか、どうしていきたいかを述べるわけで、それは自分の気持ちとして正しいと言い切って何が悪いってな話です。
自分の意志を示すのに歯切れが悪くて、自信がないと受け取られるのは流石に仕方ないです。
営業マンが「この商品をご購入いただきたいかもしれません、、、」なんて言ってたら、どっちでもいいのかよとツッコミが入りそうです。
自分の意志として購入して欲しいなら「この商品をご購入ください」と言い切れます。
セミナー講師が「本セミナーは皆さんに役立つ場合もあります」とか問い掛けたら、右から左に聞き流す準備が整ってしまいそうです。
「本セミナーは皆さんに役立つものであると考えています。」と言われれば、自信があるんだなという印象を与えられます。
という感じで、事実や自分の意志など、はっきり正しいと言える事は言い切れます。
そう考えると、思った以上に世の中言い切れる事って存在しません。
不確定なこと、賛否があるもの、曖昧なものが沢山あります。
不確定なことって言い切れない
不確定なことは言い切ることができません。
個人的には、どうなるか誰にも分からないことを正しい、あるいは間違っていると言い切れる理由が知りたいところです。
営業マンが引合段階で納期を訊かれたとしたら、「ざっくり1ヶ月くらい」のような回答になるのは自然なことです。
製造部門に連絡すらしていないので確かな納期は分かりません。
納期1ヶ月で決まっていた案件に対して、急遽客先から「なんとか3週間にして欲しい」と連絡がある時は、「できるだけのことやってみます」的な曖昧な回答は避けられません。
セミナー講師が、「100年後の日本はどうなっていますか」と質問されたとしたら、「〜と推測します」「〜と思います」と語尾に付くのは当たり前です。
現在の情報を基に100年後の日本を予想はできますが、それが正しいかどうかは分かりません。
5年後だって、100年後の予想よりも確度が高くなるだけで、絶対に正しいと言い切れるものではありません。(そうでなければリスクヘッジなんて言葉は生まれないわけで)
たまに、未来を言い切った情報を見かけますが、意図的に注目を集める為か、断言に安心したい人を呼び込む為のどっちかが目的だと思います。
不確実なものを分からないで終わらせるというわけではありません。
分からないことでも、今ある情報や実績などをヒントに手探りで予想していくことはビジネスでも人生でも大切なことです。
でも、その予想が正しいかのように言い切ってしまうことには疑問を覚えます。
言い切ることは議論する気がないと言っているようなもの
言い切る、断言するということは、自分が正しいとはっきり主張することです。
異論を受け付けない、議論の余地を与えないという態度とも言えます。
言い切るばかりでは、誰も話し合いや議論に応じてくれなくなります。
そんなつもりでないとしても、言い切ってしまった後に良い異論が出てきて、そういう意見も有りですねと受け入れられるのか気になってしまいます。
受け入れたとしても、さっきの断言はなんだったんだ、、、ともなりますし。
ただ、時には異論を受け付けないことで人を鼓舞する効力を発揮します。
不安や迷いがあると勇気を持って判断をくだせなくなります。
行くべきか、引くべきか、、、
あれこれ理由を付けて動けなくなってしまっている人に、異論を受け付けない断言によって励ますことができます。
某マンガの主人公じゃないですけど、「うるせぇ!!行こう!!」みたいな。
または、危険の中でパニックによって思考停止しまっている人には、「避けろ!!」のようにスパッと言い切ってしまう方が効果はあります。
言い切ることは、異論を受け付けない、議論の余地を与えないことだと考えれば、使い所は自ずと分かってくるんじゃないかと思います。
「自信をもって述べる」と「言い切る」は違う。と思う
自信を持って述べることと、言い切ることは別物です。
根拠を積み上げ、自分の中で最善策や正確な答えだと考えても、それが本当に正しいのかは分かりません。
あくまで、自分の中ではベストってだけです。
他の人は別の視点で考えているかもしれません。違う答えになるかもしれません。自分が知らないことなんて世の中五万とあります。
断言してしまえば、別の視点からの意見、多様な答えや知識を知る機会を失ってしまうかもしれません。
自分の考えをはっきり述べる時でも「〜と思う」「〜はどうだろう」でいいんだと思います。
ちゃんと自分が思っていること、考えていることを表明しています。
この「〜と思う」は責任逃れの為ではなく、他の考えや知識を知る為の余白を持つってことです。
私はこう思う。
あなたはどう思う。
自分の考えを曖昧にするというのは、「Aって考えもあるし、Bって考えもあるし、Cって考えもあるよね」っていうことです。
で、あなたはどれだと思うのって話です。
自信を持って述べることと、言い切ることがイコールになるのは事実を述べる時くらいなんじゃないかと思います。
まとめ
知らない事、勉強不足を痛感すればするほど、言い切る、断言することを多用しなくなります。
使い所は思いの外少ないことに気付くからかもしれません。
言い切ることは、有無を言わさずそれが是であると意思表示することです。
人によっては安心できるかもしれません。
人によっては議論しても仕方ないと思うかもしれません。
自分の意見をはっきりと述べる方法は、断言する意外にもあります。
適材適所な表現方法を身に付けていきたいと思います。
皆さんはどう思いますか。
以上、最後までありがとうございます。