よく遊んでいたけれど、いつの間にやら疎遠になる。
好みも性格も何もかも違うのに何故かいまだに顔を合わせる。
兎角、縁っていうのは不思議なものですが、よくよく考えると単に連絡したか、してないかの違いだけじゃなかろうかと思うようになりました。
便りの無いのは良い便りを地で行くと、いざ連絡したくなった時に誰もいない、、、なんてことになっちゃうかもしれません。
SNSやスマホといったツールの進化は目覚ましく、いつでもどこでも連絡できる環境にはなりましたが、結局便りを出すかは自分次第。
大事にしたい縁ならば、たまにでいいから便りを出そうと思う今日この頃です。
SNSの出現で人付き合いの難易度は激変した
SNSを使うきっかけや使い方ってどんなものですか?
私のSNSデビューはfacebookでした。いわゆるバックパッカーとして海外を放浪していた頃で、当時のバックパッカーたちはfacebookを連絡先や安否確認のツールとして活用することが多く、よくわからないけれどアカウントを作ったというのがきっかけでした。
その頃のfacebookは知り合い同士の投稿だけが表示される仕様で、今のように公に向けたコメントや広告などはなかったと記憶しています。もしかしたら単に私が知らないだけで設定の問題だったかもしれませんが。
ちなみに、CNETというウェブサイトのFacebook then and now (pictures)で昔のfacebookがどんなだったか時系列で見ることができます。あーこんなだったなあと懐かしい。
正直使いこなしていたかは甚だ疑問で、いくら知り合いしか見ないとはいえネットの海に自分の文章や写真を放流するという感覚に慣れず、誰かの投稿を眺めているだけか、個別にメッセージを送るだけでメールとさして変わらないような使い方をするだけでした。
それでも、出会った人たちは頻繁に投稿しているので、気が向いた時に見るだけでも近況を知ることができましたし、メールアドレスを交換して登録する作業と比較したら連絡先の交換も煩わしくありませんでした。
あーこれは便利だなあ、友達100人楽勝だなあと。
偶然お互いが同じ場所にいることを知り再会を果たしたり、お互いの旅程を調整して合流できるようにしたり、facebookを知る前と知った後では人付き合いの難易度が激変したように感じていました。
さらにはスマホという現代においては必需品とも言えるツールが登場し、SNSの使いやすさは爆速で向上していきます。
結局はツールの問題ではなく、用がなければ疎遠になる?
ご存知の通り、SNSには「もしかして友達かも?」のようなサジェスト機能が付いています。
知り合いの知り合い、プロフィールの内容によって、卒業以来会っていない学生時代の知人とか出てきます。
私もそんな知人を何人かSNS上で発見します。
卒業以来全く連絡は取っていないとはいえ、学生時代は普通に一緒に遊んだり、家にお邪魔したりするくらいの仲でした。「うわ、懐かしい!!今何してんだろ!?」と上がったテンションそのままに早速友人の申請を出します。
彼らは彼らで懐かしいと感じてくれたらしく、すぐに許可と「久しぶり!!」とか、「元気か?」とか「今何やってんの?」とメッセージをくれました。
いやーやっぱりSNSは便利だなあ。付き合いを復活させるのは楽勝だなあ。
とはならず、それだけでは長続きしませんでした。
最初はお互いに懐かしさや珍しさで昔話に花が咲くんですけどね。
当たり前すぎる話ですが、お互いの生活圏は別々で共通の話題なんてないし、そもそも忙しい日々の中、特に用事もない相手にお互い時間を使えるわけもない。どちらからともなく連絡を取らなくなり「知り合い」のリストに埋もれてしまいました。
SNSのような便利なツールがあったところで、双方興味や用事がなければ疎遠になっちゃうなあと。人それぞれ優先順位はあって、それは今の生活に近いものから割り振られていくというのが現実なのだと思うのです。
海外で上手くつながれていた理由は、共通の興味があったり、優先順位に影響がなかったり、たまたま条件が良かっただけの話だったのかもしれません。
もしかして新しいステージへ進めば、余程馬が合うとかでも無い限りそれまで出会った人とは疎遠になるしかないということなんでしょうか。
たった一言の挨拶という便りが縁をつなぐ
幸いそんな極端な話はなくて、ありがたく、そして、不思議にも細く長く続いている知人たちがいて数年に一回程度のペースで会ったりもしています。しかも国内外に。
たまたま数年同じ場所にいたというきっかけで出会い、今となっては住む場所も職種も興味も何もかも違う道を歩んでいます。お互いに優先順位は多分そこまで高くはないと思います。疎遠になった知人たちと何も変わりません。
ただ、唯一違って、なんとなく続いていることが「節目節目に一言挨拶を交わす」ということ。たった一言の挨拶だけで、その後に会話が続くこともない。本当にそれだけです。
「金の切れ目が縁の切れ目」ということわざがあります。
利害関係にあった場合、お金がなくなれば付き合いも途切れるという意味です。
なんだか残酷な響きですが、縁の結び目が利害関係でできていたのならば金銭がなくなればほつれてしまう。宜なるかなといったところかもしれません。
つまり、縁が切れるとは、その縁を結んでいたものがなくなってほつれてしまうからなんじゃないかと。
じゃあ、知人友人という縁は何が結んでいるのだろうと考えると、コミュニケーションなのかもしれないと思うのです。
コミュニケーションは人付き合いと切っても切れない関係です。
その後どれだけ関係が深まるかは興味や考え方、出来事などによるのは間違いないです。でも、人付き合いのきっかけになるのは、ちょっとした挨拶とか、自己紹介とか、そんな程度のコミュニケーションだというのもある程度確かな話だと思います。
ちょっとしたコミュニケーションが細く拙い縁を結んでくれる。そして、その小さい結び目を核にして、その後の付き合い方が大きく固い結び目にしてくれる。
人付き合いはそういうものなのではないかなと。
そう考えると、不思議と今でも付き合いのある彼らとつながれているのは、たった一言だけれど欠かさず続けてきた挨拶のお陰なのかもしれません。
歩む道は違うので、多分私たちの結び目は徐々にほつれて小さくなっていると思います。だけど、年に一度程度でも挨拶という便りを出すことで、一番小さな最初の縁の結び目だけはほつれないでいてくれたのでしょう。
せっかくSNSで久しぶりに邂逅できた知人たちには一言の便りを怠ってしまった。だから、再び交流が途切れてしまったのでしょう。
「便りの切れ目が縁の切れ目」ってあるんじゃないかと思います。
「便りの無いのは良い便り」というのは、例えば親子のように最初の結び目が全く別のものでできている時に言えることであって、人付き合いの基本はコミュニケーションに尽きるのではないかと感じています。
共通の話題がなくてもいいし、頻度が低くたっていい。ただ一言の便りがあるだけで、拙くか細いかもしれないけれど縁の結び目がほつれることはないのかなと。そう思ったのでした。
以上、最後までありがとうございます。