日常でも仕事でも何らかのカタカナ英語を使わない日は多分ないんじゃないでしょうか。
細かい理由は色々あるでしょうが、一口で言えば便利だからなのでしょう。
とはいえ、カタカナ英語語って使い方って注意もいると思うんです。
英語学習の妨げになるとか、意味が伝わりにくい時があるとか。
便利だからといって何も考えずに使うってのもよくないことなんじゃないかなあと思います。
ざっくりまとめると、
- 日本語は柔軟性に富んでいて、それまで海外の新しい概念やものでもカタカナにすることで簡単に日本語に落とし込むことができる
- カタカナ英語にすると的確な日本語を見つける労力が省けるし、日本語よりも簡潔に表現できたり、日本語よりも柔らかい印象や目新しい印象にできたり、権威性を演出できたりすることがあり便利な言葉
- ただし、デメリットがないわけでなく、デメリットを理解せずに多用していると英語学習やコミュニケーションにおいて不具合が出ることがある
- 具体的には、カタカナ英語化の便利さや容易さ故のカタカナ英語の定義の曖昧さ、使用量の個人差が生じ、元となった英語との差異や意思疎通に齟齬がきたすというもの
- カタカナ英語を便利に快適に活用するには、元の英語を知ろうとしたり一般的に通じるカタカナ英語の範囲を知ろうとしたり、「知ろう」とする姿勢がポイントだと思う
- 常に変化し続ける言葉に順応できるように語彙力を鍛えていきたい
カタカナ英語は便利
カタカナ英語の数や頻度は人によるでしょうけど、全く使わないなんてことはほとんどないでしょう。
バスやタクシーと呼ぶのが一般的で、大型乗合自動車や一般乗合自動車と言うことはほとんどないと思います。
資源や財源や人材を一括りにして伝えたい時にリソースが使われる場面は割と観測する光景です。
元々日本語は「〜な」や「〜する」と付けてしまえば大抵の言葉を形容詞や動詞として活用できる特徴があり、言葉を輸入するのが得意な言語です。
その為、英語圏から新しく入ってきた概念や物をカタカナ英語にすることは難しくなく、的確な日本語に翻訳する手間を省くことができます。
日本語ではちょっと一言でまとめるには難しい言葉でも、カタカナ英語にして「こういう意味だ」と定義してしまえば良いですし、日本語では個別に読んでいるけど英語では一括りにできるものがあればカタカナ英語にして手短に表現することも可能です。
他にも、カタカナ英語の方が日本語で表現するより柔らかい印象になって相手の感情に配慮しやすいということがありますし、カタカナ英語にすることで目新しい印象を与える効果なんかも期待できます。あえてカタカナ英語を多用して権威性があるように演出する人もいるかもしれません。
という感じで、カタカナ英語にはメリットが色々あって、うまく活用すれば便利な言葉です。とはいえ、デメリットだってあるわけで、考えなしに多用すると英語学習の妨げや周囲とのコミュニケーションに齟齬をきたすかもしれません。
カタカナ英語に限った話ではない話ではないですが、メリットデメリットを踏まえて上手に使ってこそ道具はその便利さを発揮してくれるものです。
英語学習におけるカタカナ英語の弊害
英語学習の妨げになってしまうと思うカタカナ英語の特徴は次の通り。
- 英語の発音とは違う
- 短縮系のカタカナ英語や和製英語が定着している
- 英語本来の意味や使い方とは違う場合がある
ご存知の通り英語には日本語にない音がたくさんありますし、音節も日本語とは違います。
そういう言葉を無理矢理日本語の発音に落とし込んだのがカタカナ英語なので、カタカナ英語の発音そのままでは通じません。
日本語は度々短縮して表現されますが、カタカナ英語も同様で本来の英語をカタカナ英語にして、さらに短縮した表現が定着しているものがあります。
例えば、テレビはテレビジョン(Television)が本来の英語に近いカタカナ表記ですし、アポはアポイントメント(Appointment)です。
英語っぽいけど英語じゃない和製英語も注意が必要で、ガソリンスタンドはGas stationやPetrol station、ハンドルはSteering wheelと英語圏では言います。
発音どうこうの前に言葉そのものを勘違いして覚えているなんてことがありえるわけです。
そして、一番英語学習の妨げになりそうなのが英語とカタカナ英語では意味や使い方が違う場合があるということ。
「今年はサイクリングにチャレンジしてみようかなー」という表現、日本語では普通に言いますよね。
でも、英語でChallengeとは困難への挑戦というニュアンスが込められていたり、異議を唱えるという意味があったり、課題という意味があったり、障害という意味があったりして、場合によってはカタカナ英語とは逆の意味っぽくなるかもしれないわけです。
上述のサイクリングうんぬんの話では「トライ」を使う方が英語と同じような使い方になります。
他にもアクシデントはカタカナ英語では不慮の良くない出来事という意味合いが強いです。もちろん英語でも同じ意味はあるのですが、「I met him by accident.(私は偶然彼に会った。)」のように単に偶然という意味でも使います。
カタカナ英語で染みついた感覚は結構厄介で、本来の発音や意味を学習しようとしても染みついた感覚とズレているとなかなか定着してくれません。
カタカナ“英語”とは言うものの結局は日本語。中途半端に英語と認識すると英語学習の妨げになることがあります。
コミュニケーションにおけるカタカナ英語のデメリット
先ほどもちょっと触れましたが、日本語は柔軟性の高い言語です。カタカナを使えば簡単に言葉を輸入できたり、「〜な」や「〜する」と付ければあっという間に形容詞や動詞に変換できたり、新しい言葉の門戸がめちゃくちゃ広いです。
つまり、言葉の個人輸入がめちゃくちゃ簡単だということです。
結果、人や環境によって使用するカタカナ英語の量が変わる現象が発生します。
バスやタクシーのように市民権を完全に得ていると言っても過言ではないようなカタカナ英語もあれば、特定の環境でしか使わないカタカナ英語もあります。
自分が普段いる環境では当たり前のように使っているとしても、その環境外では「何それ?」となって意思疎通がうまくいかない可能性がある。常に通じるとは限らない。
こういう点がコミュニケーションにおけるカタカナ英語のデメリットではないかと思います。
カタカナ英語が賛否分かれるのもこの辺に原因があると思います。
偶に目にするカタカナで埋め尽くされているような文章や会話。ある環境では当たり前に使われているのかもしれません。でも、一歩外に出ると通じない、通じたとして他の言葉を使う方が一般的なのかもしれません。
言葉は意思疎通の道具なわけで、相手に通じなかったり違和感を覚えたりする表現を使うことに否定的な気持ちは凄くわかります。
一方で、とある環境ではそれらのカタカナ英語を使う理由があるのかもしれません。普段通りに会話していたら出てしまうってこともあるかもしれません。
言葉は常に変化していきます。柔軟性の高い日本語であればなおのことです。過去のカタカナ英語も賛否のせめぎ合いの中で徐々に市民権を得たのだと思えば気にするようなもんでもない気もします。
とはいえ、市民権を得る前のカタカナ英語を乱発したって意思疎通に齟齬をきたすのは明らか。
自分の常識は他人の非常識かもしれないと、相手が違和感を持っていると感じたなら別の言葉に置き換えるなどの配慮は必要です。
もしもそのカタカナ英語が便利なのであれば、いつの間にか受け入れられる時は来るはず。それから自然と使うようにすればいいのかなと思います。
あとこれは本当個人の感想なのですが、新しいカタカナ英語がよく使われる環境は先進的、国際的なイメージがあり、一般的には優秀な人が集まっていると思われる環境です。なんか鼻につくようにも感じてしまうのかもしれないと想像するのは捻くれすぎですかね。
カタカナ英語を使う時は知ろうとする姿勢が大事
カタカナ英語を便利に快適に使う為には「知ろう」とする姿勢が大事なのかなと思います。
カタカナ英語の元となった英語を調べておけば、本来の発音や意味ズレを認識できます。一般的なニュースや読み物に目を通しておけば、大多数の人に通じると思われるカタカナ英語の範囲を知ることができます。
覚えたカタカナ英語をなんとなく使うから、デメリットが顕在化してくるんじゃないかなと。
カタカナ英語に限った話ではありませんが、生兵法は大怪我の基とも言います。カタカナ英語をよく知らないまま使えば何かしら不具合出るのも当たり前のことです。
ということで、カタカナ英語にも元の英語にも周囲が使う言葉にも常に興味を持って、常に変化し続ける言葉に順応できるように自分の語彙力を鍛えていきたいなあと思います。
以上、最後までありがとうございます。