誰が言ったか、歳を取るとは昔の自分を恥ずかしく思うことだそうです。
先人の言葉の重みは凄いですね。思い当たる節がありすぎです。
「だから言ったじゃないですか」と嘯いていたことは私にとってまさしくそれで、思い出すだけでも恥ずかしくなるダサかったあの頃。
だけど、「だって言ったじゃないですか」と言わせてしまう聞く耳持たない自分を恥じてみたり。
ざっくりまとめると、
- 意見を聞いてもらえないストレス発散や予見できたマウンティングの為に「だから言ったじゃないですか」と言ってしまうことがあった
- これって自己中心的な考えと無責任さの表れであってものすごーくダサいことだった
- 一方で、自分の考えが偏っている時は他方の意見を軽視してしまうことがあって、そんな時の「だから言ったじゃないですか」にダサいと反応する方がダサい時がある
「だから言ったじゃないですか」はダサい
「だから言ったじゃないですか」を言うに至ってしまった過程は、
- 事を進めるにあたり、私は違う意見を持っていた
- 私には決定権がなかった
- 私の意見が聞き入れられなかった
- 意見を聞いてもらえないことに私は少なからず不満があった
- 結果的には成功しなかったり問題が発生したりした
- 私は予想できた結果だとマウンティングしたかった
- 場合によっては責任がないと主張したかった
ずらっと書き連ねました。ものすごーくダサいです。
まず決定権がないということは、責任が小さいか無い立場からの意見です。組織内で決裁権がないとか、個人の問題で結局他人事とか、安全なポジションから持論を展開しているわけです。
そして、聞き入れてもらえなかったということは説得力に欠けていたのかもしれないし、リスクを説いても「じゃあどうする」という提案をしていなかったかもしれないし、無責任な意見で反感を持たれていたかもしれない。
少なくとも一旦立ち止まって話を聞こうかと思わせる建設的な意見ではなかったのだと思います。
何より他人の意見より自分の意見を優先したくなるのが人間ってもんですし、私が自分の意見を優先させたくて不満タラタラなのですから言える立場にありません。
で、極め付けは結果が出た後のマウンティング。ちょーダサい。
私の意見を取り入れなかった不満、予見できるだけの有能さアピールをふんだんに詰め込んだマウンティングは思い出すだけでも胸焼け起こします。
今更言っても仕方ないことを「私はわかってましたよ」なんて言っても軋轢を生むだけですし、解決策につながるような話でもないです。
リスクを承知で実行したのかもしれないのに自分だけがわかっていたかのような振る舞いは傍から見ればマヌケだったことでしょう。
結局「だから言ったじゃないですか」を私が言えてしまっていたのは、自己中心的に物事を考えていて、責任から離れた場所を確保しようとしていた結果だったのかなと思います。
「だから言ったじゃないですか」には違う意味が込められていることはある
一方で、他の人が発する「だから言ったじゃないですか」は、人の話に聞く耳を持っていなかったサインかもしれないと考えるようにしています。
自分の話を聞いてもらえなかったことに多少なりとも不満に感じることは私に限らず大体の人がそうだと思います。その不満が「だから言ったじゃないですか」に表れるわけですが、不満が一律だとは限りません。
例えば、条件がきついけれどやらなければいけない案件に取り組む時。なんとかして達成しようとすると割と前のめりになることってあると思います。
達成することばかりイメージすることで段々とテンションが上がり、リスク管理が甘くなったりコスト感覚が薄らいだりという感じで守りが手薄になってしまう。
そんな時に冷静にリスクやコストの指摘が入ると水を差された気分になってしまい考慮すべき事項にも関わらず軽視してしまう。
そして、軽視していたリスク管理の甘さが芳しくない結果を招く。
そりゃ「だから言ったじゃないですか」と言いたくもなります。
同じく達成したいからこそ冷静な意見を提示したのであって、決して後ろ向きな発言をしたわけではありません。
にも関わらず、耳を傾けないどころかやる気がない扱いをされてしまうなんて不満をぶちまけたくなるってもんです。
「だから言ったじゃないですか」という同じ言葉でも、状況によって意味が全然違うものになります。
私自身の言葉は恥ずかしいものだったかもしれませんが、他の人が発する時は違う意味があるかもしれない。
「だから言ったじゃないですか」に脊髄反射でダッセーなと反応してしまうことも同じくダサいことなんだってことを忘れないようにしたいです。
以上、最後までありがとうございます。