ざっくりまとめると、
- 努力は重要だけれど、特別でも高尚なものでもないと思う
- 努力が高尚化すると、才能という現実や盲目的な努力の賞賛によって、最終的に途轍もない苦行になってくる
- むしろ、日々の小さな課題解決だって努力の一つで、必要になれば誰でも行う自然な行動
- とんでもない高みを目指す特別な努力をする人はいるし、本当に凄いけれど、それが努力の全てではないと思う
努力はそんなに偉いものなのか?
まず断っておきたいのが、努力は無駄と言いたいわけではありません。努力は重要です。ただ、必要になれば誰もが自然と行う極々ありふれたものでしかないと思うんです。
ところが、なんとなく世の中では努力に対して高尚さが求められているような気がします。何か精一杯やらなければいけないもので、崇高なものであるといった感じです。
努力を推奨する為に「無駄な努力はない。必ず報われる。」や「成功者は努力している。努力は大事だ。」と言ってみたり、成功者=努力家=人格者と無意識に見てしまったりするのが、その辺の証左なのではないでしょうか。
しかし、実際は努力に高尚さを求めることは難しいです。高尚さに伴って高い目標を掲げ、必死に汗を流すことに主眼が置かれるからです。そうなると努力は途轍もない苦行になります。
努力を高尚化することで生まれる歪み
途轍もない苦行になる大きな理由は2つです。
1つ目は、努力は才能には敵わないという事実があるから。
天才というほどでなくとも才能の差は残酷です。時にどれだけ努力しても報われない瞬間は訪れます。人によっては「努力が足りないからだ。」と言うかもしれません。しかし、真剣に努力すればするほど才能という壁はあまりにも高いことに気づきます。
極論1番になれる者は一人しかいません。高い目標を掲げたものの成果が出なければ努力は苦しくなります。当然です。
これは地道な努力が単調で辛いとは意味が違います。目標達成とセットで考えることによって、それまでの鍛錬は無駄だったという喪失感が辛いです。
個人的に思うのは、成功した人であっても、成果が全く見込めなければ同じ努力を続けるのは難しかったのではないかということです。
もちろん、半端な覚悟で努力されてきたわけではないでしょうから軽々しく言えるものではありません。しかし、そうだとしても基本的に目標には期限が存在します。意志の強さに関わらず、状況が努力の継続を許さない瞬間はいずれにしろ訪れていたのではないでしょうか。
2つ目は、間違った方法で努力すれば徒労に終わるという事実があるから。
努力そのものが立派だという考えは大事ですが、それは習慣化するために有効な手立てです。
多くの方が述べていますが、間違った方法で努力を続けても、間違った形が身につくだけです。
基本形を身に付け、自分の形に落とし込み、自分に合った形に仕上げる。いわゆる「守破離」は鍛錬において重要です。時には過程を精査したり、他者の指摘に耳を傾けたりすることも必要です。
努力が報われないことは珍しくありませんが、漫然と努力そのものを讃えるだけでは徒労に終わってしまうかもしれません。
努力は割とありふれたもの
冒頭の通り、努力とはもっとありふれた、決して大層なものではないと思います。
人はそれぞれ立っている舞台は違います。目標も違います。
- 期末試験で赤点を取らないために勉強する
- 仕事を早く覚えるために研修内容を復習する
- 健康維持のために毎日ウォーキングに行く
どうでしょうか?
人によっては、上記のような行動は努力ではなく、「当然の取り組み」だと考える方いるかもしれません。
言わんとすることはわかります。最低限のノルマとも言えますし、もっともっと高い壁に挑んでいる人は他にたくさんいます。
でも、努力とは自分の目標達成のために尽力することであるならば、違う舞台に立っている人間からあーだこーだ言う話ではないと思います。
その人にとっての目標があって、達成に必要な努力を行なっている。努力なんて必要な時に必要なだけ誰でも行なっている。その程度のありふれたものという認識で良いんじゃないかと考える次第です。
もちろん、限界まで追い込み、周囲から賞賛されるような努力をする人います。努力が報われるか否かなんて重要視していない人います。
最高の自分を作り、高みに挑み続ける。仮に夢破れても後悔はなく、研鑽された自分という財産が残る。あるいは、限界値をさらに押し上げ、更なる進化の可能性を見出す。そういう人います。
そういう人は稀有な存在です。だから、多くの人が惹きつけられます。多分、そういう姿勢を貫く力自体が才能だと言えるのかもしれません。
けれども、そんな凄い努力だけで世の中成り立っているわけではないのかなと思います。
以上、最後までありがとうございます。
